アメリカSGIについての最新研究2書への書評
2019-06-11


日本の創価学会は1966年に600万世帯を越えるなど急速に発展していったが、池田の訪米によってアメリカでの組織化がなされ本格的な展開が始まる。60年代後半にはアメリカSGIも9総支部36地区へ、会員数も一説では3万人から17万人へと拡大し、日蓮正宗寺院も2ヶ寺建立された。白人会員が4割を超え、アフリカ系は12%、ラテン・アメリカ系も13%に達したという(44)。
なお、戸田第二代会長は「東洋広布」を主張していたが、その後継者たる池田が、会長就任後は沖縄に続いてアメリカを訪れて海外布教を開始したのは、池田の戦争体験と戦争花嫁の存在が大きな要因であったことが指摘されていて興味深かった(24-25)。

 第2章は、60年代後半から70年代半ばにかけてのアメリカSGIの最初の絶頂期と70年代後半の停滞期への突入を、その諸要因に注目しながら描いている。絶頂期をもたらしたのは、1970年に初代理事長となるGMWの強力なリーダーシップのもと、全米各地の大学で行ったNSAセミナーとストリート折伏運動、毎年の全米総会に並行して行われるようになった大規模なイベント形式のコンベンションによって、対抗文化運動のさなかにあった若者を引きつけたからである。「ヒッピーからハッピーへ」という当時のスローガンが、それを象徴的に物語っている。
 コンベンション路線のピークは1972年10月に行われた静岡県富士市にある日蓮正宗総本山での正本堂落慶大法要と翌年10月の「正本堂コンベンション」であり、アメリカから3千人以上が参加した。その後も数年間はコンベンションが続き、1975年1月にグアムで創価学会インターナショナル(SGI)が設立され、7月にブルー・ハワイ・コンベンションがこれまでにない規模で実施される。しかし、昼夜を問わないストリート折伏と大規模なコンベンション方式の布教活動に家庭生活や経済の面で破綻をきたすメンバーも増え、その路線への不満と見直すべきとの意見が高まっていき、日本の創価学会が「広布第二章」に入るとアメリカでもフェイズ2という大停滞期に突入した。
 日本で1969年から翌年にかけていわゆる「言論出版問題」が生起し、1970年5月3日の第33回本部総会において、池田会長は創価学会の運動方針の大幅な転換を表明した。創価学会の運動は完成期に入ったこと、教勢拡張第一ではなく地域に親しまれる学会をめざして文化・教育・平和運動に邁進する。国立戒壇論を改めて否定し、建設中の民衆による正本堂こそ「本門戒壇」であり、国教化はめざさない。公明党との組織的人的分離を明確にし、会員の政党支持は自由であること、これまでの批判拒否体質を改め、下からの意見を尊重する民主的な教団をめざす等などを宣言した。そして1972年の正本堂完成をまって、民主化・近代化路線とも言われる「広布第二章」に入ったが、この教勢拡大よりも会員の成長を重視する方針がアメリカにおいても採用された結果、メンバーの様々な不満や意見が噴出し、まさに下からの大変革のうねり引き起こした。それがフェイズ2である。それまでの毎日続けられたストリート折伏は中止され、毎年の大規模なコンベンションも行われなくなり、少人数の座談会と教学学習、唱題・勤行を中心とする運動へと大転換した。日本人の幹部をアメリカ人に交代させ、男女に分けて座る会合や制服の廃止など日本的な活動と方式が廃止、男女青年部、あるいは四者が廃止、折伏や組織動員的活動を停止したが、その結果はメンバーの大幅な減少を招いたという(106, 194)


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